ホーム > おしえてTea Cha! > 茶の歴史 > 漢代の喫茶法 ほかの物と煮る茶
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(前漢 BC206~AD8、23~25.後漢 AD25~220)
漢代は起源前後合わせて約400年余り、日本は弥生時代です。当時は奴隷売買をしていましたが、その契約書の形でおもしろおかしく書かれた『僮約』(紀元前59年ごろ)に、茶らしいものが登場します。茶といっても当時の茶は、現在我々が考える中国茶とはだいぶ違っていたようです。まず茶は初め飲み物ではなく、薬かスープとして出発したと考えられています。『僮約』に「烹荼」(この荼を茶と考える)とあり、「烹」の字には煮るという意味があります。漢の少し後の元鰐という人の文に「茶粥」が出てきます。477年に書かれた『広雅』(現在散逸)には、茶を飲む時に葱、生姜、みかんを混ぜるとあります。茶そのものも、『広雅』に出てくるのは、茶の葉を餅状に丸め、飲むときに炙って搗き、湯をかけるという茶です。これらの資料から、漢代の茶は他の材料と一緒に煮るスープ状態のものだったと推測するのです。
薬用説は『茶経』の中で伝説の人物・神農が解毒に茶を用いたと書いていることから始まります。前漢の司馬相如が書いた『凡将篇』に薬として「荘詫」*として表わされているのが茶のことだという説もあります。『広雅』にも、茶が酒の酔いを覚まし、眠気をとると書いていますから、カフェインの働きが茶の特徴として、経験的に知られていたのでしょう。しかし、詳しい用法などはわかっていません。
いずれにせよ、『僮約』では、奴隷を使う身分の人が客を迎える時に用意させたり、特別に注意して買わせていますから、後の時代に比べると日常性が低く、貴重品に属していたといえるでしょう。
*(注釈)「荘詫」の荘は、本来は「せん(草冠に舛)」と書く。
(参考文献)
<日本書>
<中国書>
(斎藤 美和子)
『僮約』