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ボストン・ティーパーティー事件

アメリカがイギリスから独立するきっかけとなった1773年12月のボストン・ティーパーティー事件はイギリス東インド会社によって輸入されたお茶が密輸品にくらべ、あまりにも高かったことと本国政府が東インド会社のお茶を植民地で独占的に販売しようとしたことに対する植民地人の怒りのあらわれでした。その後、1776年「独立宣言」が発せられ、1781年には植民地側はイギリ軍に完全に勝利し、独立を達成したのでした。いわば、お茶がアメリカ合衆国建国の歴史を作ったともいえる事件でした。

1. アメリカへはオランダからお茶が入った

最初にアメリカへお茶をもちこんだのはオランダ東インド会社で、オランダの植民地、ニュー・ネーデルランド(1616~1664)、つまり今日のニューヨーク州でした。その首都、ニュー・アムステルダム、つまりニューヨークはアメリカのお茶発祥の地でもあります。このころ、イギリスも急速に海運国として発展し、商業権益をめぐってオランダと対立するようになりました。1651年、イギリスは国内貿易からオランダを排除するため、「航海法」を定め、植民地もその対象にするなど、積極的な対外政策を展開し、ことごとくオランダと対立し戦争となりました(4度の英蘭戦争)。1664年にはオランダの植民地、ニューネーデルランドを侵略し、ニューヨークと改めました。これを機に植民地アメリカのお茶はイギリス東インド会社から入ってくるようになりました。

2. イギリス東インド会社への怒り

その1 密輸茶の方が安かった。

当時のアメリカにはオランダのほか、フランス、デンマーク、スエーデンなどからもお茶が入っており、すでに必需品になっていました。必需品は安くなければならないのにイギリス東インド会社がロンドンから運んでくるお茶は高いものでした。こうなると密輸が横行します。植民地にはイギリス船しか入港できなかったこともあり、お茶に限らずさまざまなものが密輸され、しかも安いものでした。ニューイングランド沖には密輸船が横行し、イギリスは沿岸の警備を強固にしました。快速帆船クリッパーはその警備をくぐりぬけるため生まれたともいわれるくらいです。

その2 独占への怒り

イギリスは七年戦争で財政危機になっていたため、植民地へ課税を強化しました。1765年、「印紙法」を制定しましたが植民地側の抵抗により、3カ月で廃止されました。かわりに1773年、「茶条例(茶法)」ができました。その税率は茶1ポンドにつき3ペンスとかなり低いものでした。(しかし本国は無税)、しかもお茶は密輸品にくらべ半額近く安くなっていたにもかかわらず人々はあえて密輸品を求めたのでした。また、同法は滞貨をかかえ、経営危機になっていた東インド会社を救うため、植民地での独占的な販売を認めるものでした。誇り高い植民地人の怒りはついにボストン港での荷揚げ強行への反発となり、東インド会社船の積荷の茶342箱を海中に投げ出したのでした。イギリスはその賠償を求めましたが、植民地側は拒否し、独立戦争への発端となったのでした。

(参考文献)
岩波講座 世界歴史 岩波書店

(森竹 敬浩)