ホーム > おしえてTea Cha! > 茶の文化 > 三千家の成り立ち
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京都の茶の家元である表千家、裏千家、武者小路千家の三家をもって三千家と称します。三千家の祖である利休が秀吉から切腹を命ぜられて後、先妻の子道庵と後妻の子小庵は地方に逃れます。数年して徳川家康や前田利家らの取りなしで小庵が京に帰ります。小庵は秀吉から利休の遺物を下賜され、京にあった千家の後を継ぎます。前後して道庵も帰京し、利休の出身地である堺の千家を継ぎますが、こちらは道庵没後に絶えてしまいます。
秀吉の没後、天下は家康のものとなります。小庵は家康に仕えて四百石を受けますが、間もなく仕官を辞して西芳寺に隠棲します。その小庵の子、宗旦が千家を継いで初めに営んだのが「不審庵」です。宗旦は隠居に際して不審庵を子の江岑宗左に譲り、新たに隠居処として「今日庵」を造営します。その後、今日庵を仙叟宗室に譲り、さらに「又隠」を建てて二度目の隠居をします。
宗旦は一生仕官をしませんでしたが、三人の子にはそれぞれ紀州徳川家、加賀前田家、讃州松平家に茶頭として仕官させます。一翁宗守が官を辞してのち武者小路に立てたのが「官休庵」で、これにより茶家としての三千家の基礎が確立します。
(参考文献)
日本の茶家 井口海仙著 昭和58年 河原書店
利休とその道統 千宗守編 昭和49年 創元社
(小野 はやを)
上:武者小路千家(官休庵)表門/中:裏千家(今日庵)表門/下:表千家(不審庵)表門