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アヘン戦争とお茶

イギリスでは19世紀にはお茶が広く国民に普及してきました(図表と写真)。当然、お茶の輸入量も増大しました。とくに、それまでイギリスの茶貿易を独占していたイギリス東インド会社の貿易独占権が廃止され(1833年)、貿易が自由競争になったことも大きな要因でした。

1 お茶の飲みすぎで経済悪化

お茶の輸入量が増えればその分輸出国への支払いが増えます。当時、国際間の支払いは銀で行われており、イギリスに銀の不足が目立ってきました。もとよりイギリスはアメリカ独立戦争の影響で植民地からの銀の供給が困難になっていたことに加え、産業革命の進行などにより、たくさんの銀が必要となっていました。そこへお茶の輸入量がふえたため、中国に払う銀が底をついていたのでした。

東インド会社は逆に中国から銀を引き出すために、イギリスの羊毛や綿織物をインドへ、インドのアヘンを中国へ、中国のお茶をイギリスへ、といういわゆる「三角貿易」を考えついたのでした。もともと中国ではアヘンはポルトガル商人によって医薬品として輸入され、その輸入量は年間約1000箱に過ぎないものでした。ところが1830年ころから急激に輸入量が増大し、なんと2万箱。35年には3万箱、39年には4万箱へと激増していました。中国国内では逆に銀が流失し財政が窮乏するとともに、アヘンよって風紀の乱れなど社会が混乱してきました。

2 イギリスの武力挑発

東インド会社はアヘン取引に直接かかわらず、会社の許可のもとに新興の自由貿易商人にアヘンを売り込ませていました。この中には幕末から明治に日本の茶貿易で活躍したジャーディン・マジソン社(日本では「英一番館」とよばれていた)も含まれていました。

1839年、中国では林則徐がアヘン取締りを強化しました。折も折り、イギリス人水夫が酒に酔って中国人を殺害する事件が勃発し、中国はイギリスに犯人引渡し要求を拒否されたため、対抗してマカオを封鎖したのでした。翌年になるとイギリスは海軍を派遣し、中国海軍を破り、主要な港を占領したため中国はイギリスの条件を受け入れ、1842年、戦争は終結しました。これが「アヘン」戦争でした。

3 中国茶の輸出はさらに増大

この結果、中国は、1.ホンコンをイギリスに譲り渡し、2.カントン港のほかさらにシャンハイなど5港を開港することになりました。したがって、この戦争を機に、中国からさらにお茶の輸出が増大することになりました。以後、中国は苦闘と混乱の時代を迎えることになりました。ホンコンはつい最近、1999年中国に返還されたことはご存知のとおりです。アヘン戦争は日本にも大きな影響を与えました。幕末、ペリー艦隊の浦賀来航を機に、外国人排斥運動、つまり攘夷運動が激化したのもアヘン戦争によって欧米列強の実力を知らされたからでした。

これほどアジア諸国に大きな影響を及ぼしたアヘン戦争もその発端は「イギリス人のお茶の飲みすぎ」だったのです。

(森竹 敬浩)

上:イギリスにおける紅茶の普及(画像をクリックしてください)/下:ロンドンのコーヒーハウス(ここでお茶が出され人気を得た)