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武士と茶

中世以来、日本の社会において支配階級となった武士は、一方で日本独特の喫茶文化の形成に大きな影響を与えました。

日本に抹茶をもたらした栄西が鎌倉幕府の将軍源実朝に茶を献上して彼の二日酔いを鎮めるととももに、茶の効用を説いた『喫茶養生記』を献納しましたが、武家の棟梁である将軍が茶の効能に接したことは、その後武士社会にお茶が広まっていくきっかけとなりました。

武士の茶に対する関心が徐々に高まっていく中、南北朝時代には佐々木道誉のように莫大な財物を賭けて、お茶の異同を飲み当てる闘茶と呼ばれる遊興のお茶をおこなうものも現れました。さらに室町時代には足利将軍家や、山名氏、細川氏など有力な守護大名の専用の茶園が宇治につくられようになるなど嗜好飲料としてのお茶が着実に武士社会に広まっていきました。

そして足利幕府8代将軍足利義政の建てた慈照寺銀閣に代表される東山文化の花開く中で、禅の精神に基づく簡素さと幽玄・わびの美を基調とした茶の湯が始まり、さらに戦国時代に至っては戦乱に明け暮れる武将たちがこぞって茶の湯に熱中し、名物茶道具の収集に力を入れたことは有名です。

江戸時代になると徳川幕府においても大名を客とし、将軍自ら亭主をつとめる茶会が開かれるなど、諸大名の間にも茶の湯の心得は必要不可欠なものとなりました。古田織部さらに織部の弟子の小堀遠州らによって身分秩序を意識した武家茶道のスタイルが形づくられるとともに、大名の中にも茶道に長けた人物が現れ、大名茶人と呼ばれ茶の湯の世界をリードしました。

(参考文献)
『図録茶道史』 林屋辰三郎 淡交社 1980
『チャート茶道史』 谷端昭夫 淡交社1995
『茶の湯の歴史』 熊倉功夫 朝日新聞社 1990 
『世界のお茶日本のお茶』 熊倉功夫ほか 金谷町お茶の郷振興協会 2000

(望月 伸嘉)